嗤うSchizophrenia

統合失調症持ちの考えごとブログ

彼らの小さなインターネット。

ネトウヨ、或いはそれに相対する一部の者たちを宮台真司氏は「感情の劣化」と呼んだ。

しかし、私は彼ら(ネトウヨ、或いはそれに相対する一部の者たち)は“感情”以前の問題なのではないか、と思う。そのことについて話そうと思う。

 

 

思うに、彼らを突き動かしているのは快、不快と言った、人間が本能的に生得しているある種の反応なのではないだろうか。

生まれたての赤ん坊の内面には“快、不快”と言った、生理的反応しか存在しない。腹が満たされれば快、排泄物に触れれば不快、と言った、生理的反応だ。

 

彼らは、主にインターネットを使って、彼らの主義主張に相対する者を攻撃する。そこには、快という生理的反応しか存在せず、それに依って得られる快感こそが、彼らを動かしているのではなかろうか。しかし、その快感は長続きはしない。すぐに不快という生理的反応がやって来るのだ。それは現実という彼らが見たくないものなのである。

 

勿論、彼らのような存在自体は昔からいただろう。精神的に未熟で、豊かな感情反応が無く、他者よりも優位に立つことで己の存在を誇示する、という存在。

インターネットが登場し、万人がそこにアクセスすることが出来るようになった現在、彼らにそのインターネットという居場所、つまり同じような人間が集い、生温い環境で弛く連帯する居場所が登場してしまった。

そして、インターネットと現実の境目が曖昧になってくると同時に、彼らは現実にも繰り出した。

 

昨日の茂木健一郎氏のTwitter、ブログで「「愛国者」の群れ」という表現でネトウヨについて触れていたが、「自己反省ができない」と仰っていた。

しかしながら、彼らはそもそも自己反省など出来る筈が無いのである。

何故ならば、赤ん坊は自己の像を認識出来ない。自己の像を認識出来ない者が、自己反省など出来る筈も無い。彼らと赤ん坊が、まるで同じかのような書き方をしているが、全くその通りで、正に“彼らは赤ん坊”なのである。快、不快という「サーキット」の中を延々と廻り続けている彼らの何処が赤ん坊と違うのであろうか。少なくとも、彼らが“愛国活動”や“それに相対する活動”をしている時は、大きな赤ん坊なのである。つまり、退行しているのだ。

 

インターネットの悲喜劇は数多かれども、そういった彼らに居場所を与え、そして可視化されたことが何よりの悲喜劇ではなかろうか。

 

自戒を込めて。