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駆け擦りエロスに後追いタナトス

今日の貴方は昨日の私

コミュ障という言葉が嫌い。

雑記

コミュ障という言葉が嫌いだ。

 

 

結局それはコミュニケーションを取らなくても良い免罪符としての言葉だから。

或いは自分を低く見せておく事による、“相対的に自分のコミュニケーションが、まだマシである事にする”言葉だから。

 

人間とはコミュニケーションをする動物である。それがつまり、社会性というものだ。

ここで言う社会性とは、何も複雑でかったるい事ではなく、単純に「コミュニケーション」という事だ。

 

そうそう余談だが、「一方的なコミュニケーション」という言い方にも違和感を覚える。

そもそも、コミュニケーションとは相互性が担保されたやり取りであるのだから、そもそも“一方的な”コミュニケーションであれば、それはコミュニケーションではない。

 

さて、コミュ障に話を戻そう。

結局、コミュ障とは言い訳でしかない。

内向型には内向型の、口下手には口下手のコミュニケーションがあり、単に「話せません」「何を話せば良いか分かりません」「話題提供が苦手です」はコミュ障が云々という話ではなく、単に自分の性向を勘違いして“話そう”としているか、一方的な思い込みでコミュニケーションを取ろうとしているか、だ。

 

コミュニケーションというのは、相互が心地好い話題のキャッチボールであり、単に話せば良い訳でも、話せれば良い訳でもない。

コミュニケーションは“会話ではない”のである。無言のコミュニケーションや寡語のコミュニケーションも存在するし、存在しなければ全体としてのコミュニケーションは成り立たない。

 

人は、他人の言語や意識に反応するのではなく、無意識にこそ反応するのだ。

つまり、真に心地好いコミュニケーションとは無意識が通い合う関係性があってこそ成り立つものであり、喋れば良いというものではない。

 

単に「会話下手」という意味合いでコミュ障と言うのは完全に誤りである。