読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

駆け擦りエロスに後追いタナトス

Blog of philosophy in digital

反抗の徒に成ろう。

蓮舫さんの問題、騒動から、飛躍して考えた事。

 

 

今、社会が千々に断裂し掛かっているのは、当然の事なのかも知れない。

それは、政治、それも民主主義を標榜する政治体制に於いて、明確な対立が無いからではないか。つまり、政治の場に於いて、個人個人の対立構造を掬い取り、論争や競合を真摯に行う事で、種々の対立を政治や行政が体現し国民に政策や法律として還元出来ていないからではなかろうか。そんな事は誰しもが感じている、知っている事だろう。

 

しかし、言葉にして吐き出すか否かに関わらず、誰しもが分かっている事を政治が実現していない。表現すら出来ていない事が、個人や社会其のものの病理と化しているのではないか。つまり、国民や市民といった個人や小規模なコミュニティに、大きな対立構造を押し付けてしまっているのかも知れない。

 

ならば、反抗の徒に成れば良いのだと考える。対立ではなく反抗。

我々、一人一人が不当な侵害や差別を受け入れない事を遵守、表明し、立場や思想の対立、闘争が在っても、それが反抗への試金なのだと自覚し、其の中から対抗の方策を各自探究していく事が"真っ当な"反抗の徒と成る道なのではないか。

つまり其れが、市民の蜂起であり我々の手に国家を取り戻す事に繋がるのだと信ずる。

 

平和とは、我々の穏やかな生活とは、嘗ての誰かが勝ち取ったものだ。それは見方を変えれば、簒奪したものなのだろう。

しかし、それを悪とする事は、現在の我々が悪の享受に依って生かされている、という事を証明してしまう。そんな事は、どう考えても有り得ない。

 

我々は、どんな存在であろうとも善悪や優劣に依って生かされているのではない。其れ等をも包含、受容する現実に生きているのだ。

ならば、我々は我々に成せる事で、自らの生活や人生を勝ち取らねばならないのだ。勝ち取る事が出来るのだ。

 

例え法律や憲法で保障されていなくとも、ヒトとしての、一つの生命体としての我々には、生存欲求に由り須く「反抗の徒」と成る事を保証されているのだ。其れを忘れてはならない。