嗤うSchizophrenia

いつか君の感情を揺さぶる事が出来たならば

再三再四、私は私を喪失する。


小児性愛は無条件に否定されるべき事象では無い。 - 駆け擦りエロスに後追いタナトス

 

言い訳の様だが、そして言い訳なのだろうが、少し思考の整理を。

 

 

 

私は、恐らく精神医学で謂う処の小児性愛者ではないのかも知れない。

思春期以前の児童には欲情し得ない。そして、成人女性に拒否感を保有している訳ではない。私の個人的性欲動の記述は、此処までにしておく。

ただ、私は儚い存在、危うい意識を包含する人に惹かれるのだ。性的感情や恋慕に限らず。

 

私と恋愛関係に在った人は、皆危うい意識の持ち主だった。一言で、そして一面的な表現をするならば、"メンヘラ"と呼称される(事も多い)女性だった。

彼女等を「救いたい」という独善的な意識と下心は有った。それについては、何の申し開きもしない。しかし、其の時の恋人を真剣に愛そうとしたのも、また事実なのだ。

 

私は愛し方が分からない。愛され方も分からない。いや、皆そうなのだろう。

 

 

 

 

 

気持ちの悪い話をしよう。

今まで、誰にも何処にも開示しなかった、私の望む最期。

 

 

 

 

 

それは「本当に愛したヒトに、殺される」である。

 

つまり、本当に危ういのは、私自身なのだ。私の性意識こそが、今にも喪失しそうな儚い願望なのである。

 

勘違いしないで欲しいのだが、私は自殺願望者ではないし、何時死んでも構わない訳ではない。ただ、私の勝手な"究極の愛"の妄想である。

何故、この様な願望が生まれたのかは分からない。何か、忘却の彼方に追いやった過去があるのかも知れない。

 

もしかすると、物心付いた頃から空想とファンタジーの世界に籠っていたのは、重苦しい現実からの逃亡だったのかも知れない。

其れが在るのならば、知りたい。反面、知るのが恐ろしい。自分の深淵を覗き込む事が、"死"よりも見えない闇だったのならば……。

 

私は、私の事が最も分からない。此の儘死するのは、悔恨の極みだ。しかし、自らの深淵を照した時、私は私を保っていられるのかは分からない。其れこそ、「死んだ方がマシ」なのかも知れない。