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駆け擦りエロスに後追いタナトス

Blog of philosophy in digital

想像とは何であるか。

私は、想像が好きだ。ライフワークと言っても良い。起きている間は、私の内面は常に様々な想像で溢れている。人に言えない想像も多いけれど。

 

 

しかし、時折思う。想像とは何だろうか、と。性格診断等で想像力が豊かな人のタイプは分かっても、想像の正体が明らかにされる事はない。

あらゆる情報が簡易に入手できる現代に於いて、想像は無用の長物なのだろうか。私は、現代にこそ想像が必要なのだと考えている。何故か。

其れを少し述べたい。

 

先ず、想像の正体について述べる。

想像とは、自己の内面世界に散在する事象を繋げる架け橋ではないか。本能、感情、思考等の存在が、其々が保有する情報を伝達し合うものが想像なのではないか。つまり、内面世界に於ける神経の樣な存在という事だ。

 

次に、現代にこそ想像が必要な理由を述べる。 

現代はありとあらゆる情報が簡易に閲覧、入手が可能である。しかし、忘れてはならないのは、入手可能な情報の増大と比例し私達の可視可能範囲も広大になっている、という事だ。そして、可視可能範囲が広がれば移動可能範囲も増えていく、という事である。それは、自分と不特定他者の双方に当てはまる事である。

しかし、可視可能範囲や移動可能範囲が広がっても、実際の視覚、身体を行使して体験出来る範囲は限られる。その外の世界を視る為には、データや数式だけでなく想像が重要なのだ。

統計で平均寿命は割り出せても、それは健康的な高齢者の生活を紹介するものではない。種々多様な情報を、想像を根底とした推測や仮定を通して初めて一つの理想としてのシニアライフが見えてくるのである。

つまりそれは、内面世界の情報同士を繋ぐ架け橋であると同時に、データや統計、或いは一見無関係な情報を結ぶ架け橋という事でもあるのだ。

 

そして、そこから得られた相対解を、広大になった可視可能範囲、移動可能範囲に当てはめていく事で、未知の世界を仮定として視る事が出来るのである。

 そして、雑多な仮定が集合し、その仮定をダイヤモンドを研磨、加工するが如く、確かなものへと形成させて行った先に、未知の真実が在るのだ。

 

故に、想像なくして探求なし、と言えるのではないだろうか。其処に想像の重要性が在るのではないか。