嗤うSchizophrenia

統合失調症持ちの考えごとブログ

他罰行為を生き甲斐にする事は、根底の自罰願望からの退避である。

それも、惨めで激しい自罰願望だ。

 

 

人は、自己が傷付く体験を甘受すると、まず嫌悪を覚える。自と他の両方に、だ。

自へ向けられるのが自己嫌悪、他へ向けられるのが憎悪だ。

 

心がしなやかで健やかな意思を内包する人は、自己の意識を快癒、修養させる事に注力するが、心が硬直し病理的な人は、自他への拒絶反応でしか懊脳から脱却出来ないのだ。

しかし、その脱却は刹那的な逃避でしかない。

 

結果、自罰願望が醸成され、心が硬く病理に冒されているが故に、その自罰に立ち向かう意志も精神力も養われないのだ。そして、自より他へと目を反らす為に、他罰という破滅へと向かうのである。

 

 

この問題を、家庭、親の養育や、学校の教育、社会の抑圧に原因と解答を求めるのは、自己満足させる為には簡単である。

しかし、人間は、自己の意識を変革させる事が可能なのだと言うことを忘れてはならない。

 

社会とは、人間が各々の意志や能力を持ち寄って集まった、多様性が最重要な、そして担保されたコミュニティなのだという事も忘れてはならない。

社会があるから私が在るのでなく、私が社会に存在するからこそ、社会は社会足らしめるのだ、という事を心と脳に刻むのだ。