読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

駆け擦りエロスに後追いタナトス

Blog of philosophy in digital

死生、我在り。

死ぬ時は、三途の河の渡し守に支払う六文が有れば充分。 それ以外のものがあっても彼の世には持って行く事は出来ない。

 

 

我慢に我慢を積み重ねても、死ぬ時は皆独り。人知れず死する老人も、国葬に臥される大統領も、死に対しては何の力も持たない。更に言えば、生きている時に持てるだけ持ち、力を行使し尽くした人間の死は、次の持てる者達に弄ばれるだけ弄ばれるだけ。

死にも生にも価値や意味は存在しない。俺達は、生きている事に価値や意味を見出だそうとするけれど、そこに真理は無い。生も死も、この世の摂理に従った現象。意味や価値じゃない。

 

尊い命というのは、その逆の卑しい命が存在するという事への肯定だ。何故ならば、尊い、は相対なのだから。比較対象がなければ、尊いも何も無い。

命は、相対ではない。そこに存在するから命たり得る。何かと誰かと比較する事は不可能。

 

生きているという事は、無限にも近い死が根底にある。死んだ者達全てが、今の生を産み出している。生きている事そのものが、誰にも起こせない奇跡なのである。

 

精子卵子が出会うのは、きっかけであって生への確約ではない。ましてや、人生の謳歌を祝福するものでもない。赤ん坊が子宮から這い出し、外の世界に触れた時に覚えるのは恐怖。故に泣く。

その恐怖を掬い取って、慰めるのが親。そうする事に依って、安心を覚える。恐怖が在るから安心も在る。親の役目は、其れのみ。其れが在れば子供は生きていける。何処までも行ける。

 

 

人間は、コーラだ。

炭酸に何か特別な栄養素が有る訳ではない。しかし、炭酸が抜けたコーラは、刺激の無い黒い砂糖水になってしまう。誰にも見向きされなくなる。

この世界に、一人の人間として生きるには、炭酸が無くてはならない。在りさえすれば、何処へでも行ける。生きていけるのだ。

 

さて、頭の整理が出来ないまま書いてしまったが、此処に書いた事が俺の死生観の基底である。

どう捉えるかは、貴方の自由である。